普通の人生ってなんだろう?―村田沙耶香『コンビニ人間』
みなさんこんにちは。
Pと申します。
今回は、村田沙耶香さんの『コンビニ人間』について書いていきます。
1時間かからずに読み切れて、それでいてかなり考えさせられる本なので、イチオシです。
今回もネタバレにならないように細心の注意を払って書くので分かりにくいかもしれません。
興味を持たれたらぜひ手に取って読んでみてください!
娯楽度 :★★★☆☆
考えさせる度 :★★★★☆
P的おすすめ度:★★★★★
芥川賞受賞作!
1. あらすじ
コンビニ店員として働く私は、いわゆる世間一般の人生とは異なる日々を過ごしている。コンビニバイト歴18年、36歳独身女性の彼女は、コンビニ店員として生きる日々に社会の「普通」にはまっているという満足感を覚えている。
彼女は似た境遇の男性新人バイト君と出会い、日々が少しずつ「変化」していく。普通に生きるとは、正常に生きるとは、アイデンティティとは、そうした問いが人生を変える……。
2. おすすめポイント
・普通の人生とは何か、考えさせられる。自分の人生を見つめなおすきっかけになる。
・普通の人生を看破する姿にスカッとする。
3. 感想など
本書では、「正常な人生」「普通の人生」を生きることが難しい2人の登場人物から、自分らしく生きることに強い問いかけがなされます。「普通の人生」を生きる人いにとって、「普通ではない人生」を生きる人は奇異の目で見るとともに、正常へと引き込む圧力や、無関係のものとして疎外する圧力が働きます。
では、普通の人生とは何でしょうか。本書では、多くの人にとって縄文時代以来の「ムラ的狩猟社会」が1つのメタファーとして示されます。強いものは強いものと結びつき、強いものにとっての常識が普通あるいは正常なものとして流布されるということです。
私はこの点に非常に強く共感をします。私自身は、人間的には完全に普通の側には属していないという自覚があるのですが、社会の中では「公務員」という仮面をかぶり、役柄を演じ切ることで社会の構成員として承認されていると認識しています。仕事の中で異議を申し立てることは、さながら役者が演出家に楯突くことでもあり、良くて黙殺最悪排除といったところでしょう。
では、なぜ演技をしなければならないのでしょう。それは、この社会全体が「普通の社会」という舞台装置を前提としている、即ちコミュニティに相応しいものは受け入れられ、望ましくないものは強く排除されるということが明に暗に前提となっているからではないでしょうか。私自身、仮面の内側はかなりユニークな人間だと自覚しておりますが、一方で仮面を脱ぐ勇気はなく、知っている人が誰もいない、完全によそ者として存在するときにおいてのみ、仮面を取っ払った私でいられる、そう思えてなりません。
一方で、若者特に就活生は「個性」を求められます。求められるのは「仮面」の姿、でも仮面の内側が大事……あるいみ矛盾した要求なのかもしれません。。
「普通の人生を生きたい、でもうまく生きられない」
この本をきっかけに、日々の生き辛さを見つめてみるのも良いのかもしれません。
全ての働く人に感謝するとともに、Stay Home Weekのお助けになれば幸いです。
以上Pでした。
なぜ応えてくれないのか―遠藤周作『沈黙』
みなさんこんにちは。
Pと申します。
今回が初めての記事です。
今日は書評ブログの第1弾として遠藤周作の『沈黙』を取り上げます。
この本の舞台は、島原の乱(1637~1638年)の直後の時代の長崎、ポルトガルから密航した司祭たちの物語です。
キリスト教に興味がある人や、歴史が好きな人、小説好きの人にはハマる本だと思います!
ネタバレを避けつつ、感想や考えたことを書いていきます。
もし興味を持たれたら、ぜひ手に取って読んでみてください。
娯楽度 :★☆☆☆☆
考えさせる度 :★★★☆☆
P的おすすめ度:★★★★☆
1. あらすじ
島原の乱を経て、日本ではキリシタンの禁制がより厳しくなる。日本で布教していた司祭たちは国外退去となった。しかし、なおも日本に残り隠れて布教活動を行う司祭たちがいた。彼らは見つかれば棄教するか死を選ぶかの中で、隠れキリシタンたちのために活動を継続した。
ポルトガル人の司祭2人は、自らの師が日本で棄教したと伝えられ、それを確かめるため、また日本での布教を絶やさぬために日本への密航を決意する。途中マカオにて1人の日本人と出会い、ともに日本へと渡るだった。
日本での暮らしは苛烈を極める。その中にあっても布教を続けるが、幕府の役人に見つかり、捕らえられてしまう。そこでは、司祭たち自身は拷問を加えられず、捕まった信者たちが苦しみ、殉教していく姿を目の当たりにする。
「信じる者を救う神はなぜ祈りにこたえてくれないのか。」この本の通奏低音として主題となっている。
2. おすすめポイント
・当時の日本人の姿に、歴史好きとして想像力をかきたてる。
・キリスト教の考え方に触れることができる。
・信仰を持つということはどのようなことか、考えさせられる。
3. 感想など
3.1 純粋な感想
私自身もキリスト教徒であり、この本から感銘を受け、また気持ちが揺さぶられる部分は多々ありました。とりわけ、「神の沈黙」については日々感じていることである一方で、この本の結末には納得のいかない部分もあるなど、総じて考えさせられることが多い1冊でした。
遠藤周作氏の文体や世界観はすごく気に入ったので、今後読み続けていきたいと思っています。
3.2 登場人物について
この物語は比較的登場人物が多いように思いますが、その中で主人公「ロドリゴ」と、マカオで出会った日本人「キチジロー」を中心に書いていきます。
ロドリゴは、ポルトガル出身の司祭(宣教師)で、自らの師である「フェレイラ」が日本で棄教したと聞きつけ、同僚の「ガルペ」とともに日本へ渡る。
彼は自らの信仰を揺るがすことなく神を信じる一方で、隠れキリシタンの信徒たちや自らの苛烈な運命の中で、「なぜ神は沈黙したままなのか」と心中叫び続けている。
キチジローは長崎出身のキリスト教徒であるが、マカオから帰国できなくなっていたところ、ロドリゴたちと出会うことで水先案内人として日本へ帰国する。
彼は心が弱く、自らの手柄を誇る一方で脅しや報酬に屈しやすい人物で、ロドリゴを敬う一方で最終的にロドリゴを裏切ってしまう。
それぞれ4行程度でまとめるとこうした登場人物です。私見では、ロドリゴとキチジローの関係には(本文中にも触れられていますが)、(地上における)イエスとイスカリオテのユダの関係が重ねあわされているように思います。
この辺りはキリストの死にまつわる物語を知らないと分かりにくいと思いますので、次節で簡単にまとめます。
3.3 キリスト教について
イエス・キリストは聖書において、現在のイスラエルで生まれ、神の教えを宣べ伝え、十字架にかけられ死に、復活したとされています。この中で彼の死にまつわる物語が『沈黙』と深く関係しています。
イエスは、ある日の晩餐の中で弟子とともに食卓を囲んでいる。その時、イエスは突然「この中に、私を裏切ろうとしている者がいる」と語る。そしてイスカリオテのユダに対し、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と語りかける(『ヨハネ福音書』13章21節~30節)。その後、ユダは兵士たちにイエスの居場所を教え、逮捕・処刑となる。
この場面は、レオナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」に描いたものです。
ユダが裏切った理由について、『マタイ福音書』では金のためとされています。同じようにキチジローも司祭を差し出せば銀300枚を与えると唆されますが、彼は金では転ばず、むしろ「差し出さなければ分かっているな?」という脅しに屈した人物として描かれています。
教えを説くもの、教えを説くものを裏切り役人に引き渡すものという似た構造がみられるのではないでしょうか。
また、タイトルのとおり、「沈黙する神」も1つのテーマになっています。どれだけ祈っても、神が応えてくれない、これは何を意味するのでしょうか。イエスは処刑に際して、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んでいます(『マルコ福音書』15章34節)。イエスにとっても、自らの死に際して神の沈黙を実感したのかもしれません。この叫びは、ロドリゴが日本で受けた様々な仕打ちの中で常に叫んでいたことと同じです。
この意味は何なのか、これはこの本の結末なので、ぜひ皆さん手に取って読んでみてください。
以上Pでした。